コンクリート圧送とは:沖縄県コンクリート圧送安全協議会のホームページ - コンクリート圧送工事業の施工技術の向上、安全施工の確保及び経営の改善等に関する事業を行います。

コンクリート圧送とは

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コンクリート圧送車驟雨号写真

コンクリート車の写真

コンクリート車の写真その2

コンクリート圧送とは・・・

現場の様子

コンクリート圧送とは、建設現場にコンクリートミキサー車によって搬入された生コンクリートを、上記写真のコンクリートポンプ車を使用し、油圧によって型枠内に生コンクリートを送る圧送(あっそう)し打ち込む、建設専門工事業のことです。

古い写真

品質の変わりやすい生のフレッシュコンクリート(生コン)が固まったときに設計値どおりの強度が必要であるため、生コンクリートの品質を変えることなく圧送することが不可欠です。コンクリート圧送工は、十分な経験と高度な技能や知識が要求されます。

県内圧送業の始まりと県内圧送業界の歴史

県内の圧送業の始まり①

圧送業ではなく重機屋
当時は強度などあまり気にすることなく、現場近くで採掘される白バラスや近くの海浜で採取した海砂を生コンの材料とし現場練りをし人力で打ち込んでいた。
また米軍車両を改造してスラブの上などへ上げる重機屋が誕生した。


県内の圧送業の始まり②

重機屋から圧送車へ
終戦後、米軍主導のもと(米軍基地の建造物等を作るため)台風対策としてRC構造が推進されていき、1962年前後品質を保った生コン工場(ミキサー車も)が誕生。そして、配管車の登場により圧送業が始まる。


同業社の増加

経済成長期に圧送業が増加
終戦後の昭和26年頃本土から土建業者が大挙来島参入し基地建設ブーム・羽地ダム・那覇~読谷間パイプライン等の工事が進む中、昭和40年頃、本土の高度経済成長期時代に加え県内外の大手企業出資による生コン製造業が増えミキサー車・ポンプ車が急増してきたと思われる。
また、県内では昭和47年沖縄復帰にともない、海洋博覧会(昭和50年)を機に土木・建設ラッシュが始まるが、圧送業はリスク面が高く民間企業へと専門職として移管されるようになってきた。
また、その復帰前後の土建業界には、反社会的組織の係りも多少なり存在し、圧送業界にも参入してきた。


先人達も望んだ統一

県内の圧送業を統一するために組合を発足するが・・・
県内外から企業出資の圧送会社と個人での起業する圧送会社をはじめ復帰前後約県内には10数社前後あったと思われる。
主な会社
・南洋土建「沖縄圧送」善太郎組「みどり重機」
 山城生コン「コザポンプ」
 国場組「沖縄建設工業(現:宮平重機)」
 極東開発「ライトモータース」など

    組合を発足させるが、それぞれの経営観念が合わず足並みが揃わなくなり、
    組合員の脱退減少で解散。
    また、反社会的組織を陰にちらつきさせる会社もでてきており一つにならなかった。

これまでに数回組合を発足させるが、最初に作った組合の借金を残った数社で返済した苦い思いから新規組合の発足には賛同できない圧送会社もいて統一できない状態だったという。
そしてその頃には「のれん分け」した圧送業は増え続けて、県内は組合とアウトサイダーで2分化となり激戦化へと進む。


3分化された組織

組合とアウトサイダーと北部圧送共同組合
北部圧送協同組合(現在も営業中)4~5社で発足。北部地区の境界線を設ける。これにより中南部から北部地区への参入は閉ざされるが、北部協同組合は逆に、中南部への参入はしてこなかった。
    西:国道58号線ホテルみゆき 東:国道329号線松田(北)交差点
    ※ 現在は境界線は解除中である

激戦区となった中南部では反社会的組織の嫌がらせもあり、アウトサイダーの圧送業社を数社集め、警察OBを会長に迎えた「沖縄県圧送協会(任意団体)」が発足し3分化されていった。
協会は当時、乱立していた単価を「圧送組合」に合わせ統一。
しかし「圧送組合」側は、またしても、脱組合員増加等で崩壊しつつあった。
のちに、「沖縄県圧送協会」も設立から5・6年で自然崩壊を迎えるのだが・・・。

また、その頃には、「コン圧技能士」「コン圧特別教育」が労働安衛法で定められていて、 建災防、職業能力開発協会などに加盟していた「沖縄県圧送協会」は有資格者育成の窓口となり県内圧送業の発展に多大なる貢献を残し、 中でも富山産業の山城社長(物故者)は最も尽力した一人といえる。
当、沖圧安協は「沖縄県圧送協会」を引き継いだ形をとり現在に至る。

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